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南無阿弥陀仏のリレー [『正信偈』を読む(その167)]

(7)南無阿弥陀仏のリレー

 第十七願の「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、ほめたたえる)してわが名を称せずといはば、云々」というのは、このリレーのことを言っているのではないでしょうか。仏という何か特別の存在がいるのではなく、「南無阿弥陀仏」の声を届けてくれるのが仏です。
 あるとき誰かが期せずしてぼくに「生かしめんかな」の声を届けてくれたら、その人がぼくの仏です。ぼくが期せずして誰かに「生かしめんかな」の声を届ける巡りあわせになったら、そのときぼくはその人の仏となっています。こんなふうに誰かAが誰かBの仏となり、その誰かBはまた誰かCの仏となる。こうして「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称」することになります。
 これが縦横無尽の南無阿弥陀仏のリレーです。
 このリレーを考えるときに大事なことは、「期せずして」ということです。ぼくらはあるとき、期せずして南無阿弥陀仏の声を聞きます。ふと「生かしめんかな」の声が聞こえてくるのです。そしてそれがまた、期せずして「生かしめんかな」の声を誰かに届けることになっている。
 自分としてはそんなことをしているとはつゆ知らず、しかし結果的には「生かしめんかな」の声を誰かに届けているのです。「生かしめんかな」は、向こうから聞こえてくるだけで、こちらから聞かせることはできません。自分としてはただほれぼれと聞かせてもらうだけ。その姿がしかし誰かに「生かしめんかな」の声となっている。
 曽我量深氏の名言に「往相は前姿、還相は後姿」というのがあります。ぼくらはただ「生かしめんかな」の声に聞きほれているだけなのに、その後姿は誰かに「生かしめんかな」の声を聞かせることになっていると言うのです。


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