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『正信偈』を読む(その168) ブログトップ

衆生の世界がそのまま仏の世界 [『正信偈』を読む(その168)]

(8)衆生の世界がそのまま仏の世界

 「往相は前姿、還相は後姿」をこう言い換えることができるでしょう、「前からみれば衆生、しかし後からみれば仏」と。ぼくらは衆生として、しかも煩悩にまみれた凡夫として南無阿弥陀仏をほれぼれと聞かせてもらっているのですが、でも、それを後から見ている誰かには南無阿弥陀仏になっているということです。
 煩悩具足の凡夫がその後姿を見れば仏になっているなどというのは妄言ではないかと批判を受けるかもしれません。それは仏教を根本から覆してしまうと。なるほど仏教は衆生が仏となるための教えですから、衆生が衆生のままで仏だとしますと、もはや仏教の存在理由がないということになります。最後に当たって、この難問に答える努力をしてみましょう。
 少し前のところでこう言いました、「生かしめんかな」の声は「向こうから」聞こえてくるが、それを「いまここにある世界」とは別の世界からとする必要はないと。その声は「いまここにある世界」で聞こえるのですから。
 さて、「生かしめんかな」の声が「いまここにある世界」から聞こえるとしますと、「いまここにある世界」に仏がおわすということです。「生かしめんかな」は仏の声ですから。ということは、亡くなった人たちの世界(あの世)がこの世とは別にあるのではないように、仏の世界がわれら衆生の世界とは別にあるのではない、ということです。
 われら衆生の世界がそのまま仏の世界だということ。
 それはわれら衆生と仏たちがひとつの世界のなかに入り混じっているということでしょうか。一方に「生かしめんかな」の声を聞かせてもらう衆生がいて、他方にその声を聞かせてくれる仏たちがいる。一方に男たちがいて、他方に女たちがいるように。いえ、そうではありません。


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