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『正信偈』を読む(その169) ブログトップ

僧も俗もなく [『正信偈』を読む(その169)]

(9)僧も俗もなく

 一方に凡夫たちがいて、他方に仏たちがいるのではないということ。
 もしAさんが凡夫で、Bさんが仏だとしますと、二人を分けるものは何でしょう。Aさんは悪人で、Bさんは善人なのでしょうか。Aさんは愚かで、Bさんは賢いのでしょうか。これほど浄土の教えに反するものはないでしょう。浄土の教えの核心は、AさんもBさんもみな同じように煩悩具足の凡夫だという感覚です。
 としますと、「生かしめんかな」の声は他ならぬわれら衆生から聞こえてくるのです。ただ、その前姿からではなく、後姿から。
 あっ、あの人から「生かしめんかな」の声が聞こえたと思い、「生かしめんかな」と聞かせてくださったのはあなたですかと尋ねても、「滅相もありません、わたしもその声をほれぼれと聞いているだけですよ」と答えられるでしょう。このように、衆生が衆生のままで仏となるのですが、それは誰かがその後姿を見てのことです。自分が自分にとって仏となることはありません。誰かが自分にとっての仏となり、また自分も誰かにとっての仏となるだけです。
 仏は「対自的」ではなく、「対他的」にのみ存在するということです。
 「弘経の大士・宗師等、無辺の極濁悪を拯済したもう」とありましたが、いかに七高僧といえども、みずから「無辺の極濁悪を拯済」することはできません。ただ「無辺の極濁悪」が高僧たちの後姿を仏と仰ぐだけです。「生かしめんかな」の声は聞かせてもらうだけです、決して誰かに聞かせることはできません。
 だからこそ、「道俗時衆ともに同心に」です。僧も俗もありません、みんながともに「生かしめんかな」の声に救われるのです。僧が俗を救うのではありません。僧も俗もともに救われるのです。これが「御同朋、御同行」の思想です。「非僧非俗」の思想です。

             (第23章 完)

 これで「『正信偈』を読む」が完結し、明日から「『唯信鈔文意』を読む」を始めます。いつまでやるのか、と石をぶつけないでください。

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