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『唯信鈔文意』を読む(その4) ブログトップ

『唯信鈔』という書物 [『唯信鈔文意』を読む(その4)]

(4)『唯信鈔』という書物

 では、聖覚が書いた『唯信鈔』とはどのような書物でしょうか。一読しまして(30分もあれば読めるほどの短い書物です)、法然の専修念仏の教えを要領よくまとめ上げていることが分かります。
 聖道門と浄土門の別、末法のいまにあっては浄土門がふさわしいこと、しかし浄土門にも諸行往生の立場と念仏往生の立場の違いがあり、諸行往生は自力の立場で弥陀の本願ではないこと、さらに念仏往生にも雑修と専修の別があり、専修こそ十八願にかなっていることを述べ、最後に専修念仏の教えに対して出されるであろう疑問を4点上げ、それに答えるという内容になっています。
 この書物は『選択集』の優れたダイジェストであると評価されるのも頷けます。しかし、もし『唯信鈔』が『選択集』の真意を汲み取り、それをより分かりやすく流布するためのものであるとしますと、嘉禄の法難の際の聖覚の行動がいよいよ分からなくなってきます。一体、聖覚の立ち位置はどこにあったのでしょう。一方では法然を「わが大師聖人」と呼び、他方で専修念仏を弾圧する。
 やはり聖覚の本質は叡山のエリート学僧であったと言わざるをえません。その点で、山を下り吉水の地で京の一般民衆に念仏の教えを説いた法然とは根本的に異なりますし、まして、越後に流され、その後草深い関東の地で農民や武士たちと念仏していた親鸞とは対照的です。
 聖覚と親鸞の感覚の違いについて、詳しいことは本論の中で述べていきますが、ひとつだけ先回りしてふれておきますと、聖覚は『唯信鈔』の最後で「一念義」(往生には信心が肝心で、数多く念仏を重ねなければ往生できないとするのは本願を信じていないからだ、という立場)を批判して、こんなふうに述べています。「まづ専修念仏といふて、もろもろの大乗の修行をすてて、つぎに一念の義をたてて、みづから念仏の行をやめつ、まことにこれ魔界たよりをえて、末世の衆生をたぶろかすなり」。


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