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第十七の願 [『唯信鈔文意』を読む(その16)]

(2)第十七の願

 仏道は聖道門と浄土門に分かれますが、浄土門も「またふたつのすぢ」に分かれ、「ひとつには諸行往生、ふたつには念仏往生」です。
 諸行往生とは「あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事(ぶじ)し、あるいは五戒八戒をたもち」などして「浄土に往生せむとねがふ」のですが、これは「自力の往生」で「阿弥陀仏の本願」ではありません。それに対して念仏往生は「阿弥陀の名号をとなえて往生をねがふ」のですが、「これはかの仏の本願に順ずるがゆへに、正定の業(しょうじょうのごう)」と呼ばれます。そしてこれは「ひとへに弥陀の願力にひかるるがゆへに、他力の往生」と名づけられるのです。
 さて聖覚は「そもそも名号をとなふるは、なにのゆへにかの仏の本願にかなふといふぞ」と問い、『無量寿経』に説かれている本願のいわれを詳しく説明します。
 阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩であった時、世自在王仏の前で次のような誓願を立てられた。すぐれた仏国を建て、そこにあらゆる衆生を迎え入れようと思うが、「一切の善悪の凡夫ひとしくむまれ」るためには、孝養父母とか、読誦大乗(どくじゅだいじょう)とか、布施持戒(ふせじかい)ではなく、「ただ阿弥陀の三字の名号をとなえむを往生極楽の別因」としなければならない。
 こうして「まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚(しょうよう、褒める)せられむといふ願をおこ」されたのだと言うのです。
 それはひとえに「名号をもてあまねく衆生をみちびかむとおぼしめすゆへ」であり、法照の「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎」ということばはそのことを言おうとしていると説き及びます。かくしてこの『五会法事讃』からの引文は、第十七願の趣旨を明らかにするためであることが分かります。
 ではいよいよ親鸞の本文を読んでいきましょう。


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