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『唯信鈔文意』を読む(その17) ブログトップ

親鸞の本文 [『唯信鈔文意』を読む(その17)]

(3)親鸞の本文

 「如来尊号甚分明(にょらいそんごうじんふんみょう)」、このこころは、如来とまふすは無碍光如来(むげこうにょらい)なり。尊号とまふすは南無阿弥陀仏なり。尊はたふとくすぐれたりとなり。号は仏になりたまふてのちの御なをまふす。名はいまだ仏になりたまはぬときの御なをまふすなり。この如来の尊号は不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なはよろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆへなり。甚分明といふは、甚ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり。分はわかつといふ、よろづの衆生ごとにわかつこころなり。明はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふことあきらかにわかちすぐれたまへりとなり。「十方世界普流行(じゅっぽうせかいふるぎょう)」といふは、普はあまねくひろくきわなしといふ。流行は十方微塵世界にあまねくひろまりてすすめ行ぜしめたまふなり。しかれば大小の聖人善悪の凡夫みなともに自力の智慧をもては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは智慧のひかりにてましますゆへに、この仏の智願海にすすめいれたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべし。

 (現代語訳) 「如来尊号甚分明(如来の尊号、はなはだ分明なり)」ということばですが、「如来」と言いますのは無碍光如来のことで、「尊号」とは「南無阿弥陀仏」です。「尊」とは「尊く、勝れている」ということ、「号」は仏となられてからの名前で、名はまだ仏となられる前の名前です。この如来の尊号は、称えることも、説くことも、思いはかることもできず、一切の衆生をこの上ない涅槃の境地に至らせてくださる大いなる慈悲による誓願の名号です。この仏の名号は、他のどの如来の名号よりも勝れています。それは誓願による名号だからです。「甚分明(はなはだ分明なり)」の「甚」は、はなはだということで、勝れているということです。「分」は、分かつということ、よろずの衆生ごとに分かち与えるということです。「明」は、明らかであるということで、名号は十方世界の一切衆生をことごとくたすけみちびくこと明らかで、みなに分かたれ、また勝れているということです。「十方世界普流行(十方の世界に普く流行せしむ)」の「普」とは、あまねく、広く、限りがないということで、「流行」とは名号が十方の微塵世界に普く届いていて、みんなに勧め、称えさせられるのです。大乗・小乗の聖人も善悪の凡夫もみな、自力の智慧では涅槃に至ることはできませんから、そして無碍光仏のかたちは智慧の光に他なりませんから、この仏の智慧の願海に勧め入れてくださるのです。この智慧の光は、一切諸仏の智慧のあつめたかたちで、光明とは智慧のことだと心得てください。


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