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誰が救うのか? [『唯信鈔文意』を読む(その21)]

(7)誰が救うのか?

 さて戻りまして、「こんな自分が」という咎めが疼いて、どんなに「生きてきてよかった」と思いたくても思えないとき、ぼくらに救いはありません。
 自分を「救う」ことはできそうもありません。としますと、他人を「救う」こともできないでしょう。自分を救えないのに、他人を救えるはずがありません。ということは「救われる」ことはあっても「救う」ことはないということです。
 さてしかし、先ほどの、「救われる」ということがあるからには「救う」人がいるではないかというもっともな疑問にどう答えればいいのでしょう。キリスト教でしたら、「救う」のは人間ではなく、もっぱら神で、われらは「救われる」だけと答えるところでしょう。神は「救う」だけで、われらは「救われる」だけ。浄土の教えも同様に、仏が「救い」、われらは「救われる」だけと答えるのでしょうか。
 なるほど、これは常識にあっています。神や仏は「救う」側にあり、ぼくらは「救われる」側にあります。
 しかし、キリスト教はそれでいいとしても、仏教としていかがなものか。仏教において仏は決してキリスト教の神のような超越的存在ではありません。悟りを開いた人が仏ですから、仏は人から超絶しているわけではありません。
 親鸞の言うように、人は今生において仏になることはできないとしても、本願を信じる人は仏と「ひとしい」のです。これはキリスト教では考えられないでしょう。信仰をもった人は神と「ひとしい」などという発想はキリスト教ではありえません。
 人が人を「救う」ことはなく、超越的な仏が人を「救う」こともない。ところがわれらは「救われる」。としますと、いったい誰が「救う」のでしょう。


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