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『唯信鈔文意』を読む(その35) ブログトップ

本文4 [『唯信鈔文意』を読む(その35)]

(6)本文4

 「但有称名皆得往 観音勢至自来迎(ただ名を称するのみありて、皆往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎えたまふ)」に対する註釈の第2段目です。

 自来迎(じらいこう)といふは、自はみづからといふなり。弥陀無数の化仏・無数の化観世音(けかんぜおん)・化大勢至(けだいせいし)等の無量無数の聖聚(しょうじゅ)、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆへに、みづからとまふすなり。また自はおのづからといふ。おのづからといふは自然(じねん)といふ。自然といふはしからしむといふ。しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず。転ずといふは、善とかへなすをいふなり。もとめざるに一切の功徳善根を仏のちかひを信ずる人にえしむるがゆへに、しからしむといふ。はじめてはからはざれば、自然といふなり。誓願真実の信心をえたるひとは、摂取不捨の御ちかひにおさめとりてまもらせたまふによりて、行人のはからひにあらず。金剛の信心をうるゆへに、憶念自然(おくねんじねん)なるなり。この信心のおこることも釈迦の慈父・弥陀の悲母の方便によりておこるなり。これ自然の利益なりとしるべしとなり。

 (現代語訳) 「自来迎」と言いますのは、「自」はみずからということです。弥陀の無数の化仏、無数の化観世音・化大勢至など、数限りない聖聚が、みづから時・所をかまわず、真実の信心を得た人に寄り添ってくださり、護ってくださいますから、みづからと言うのです。「自」はまた、おのずからということです。おのずからというのは、自然ということです。自然というのは、しからしむということです。しからしむというのは、念仏の行者が何もはからわないのに、過去・現在・未来のすべての罪が転じてしまうことです。転じるというのは、罪が善に変わるということです。行者が求めていないのに、すべての功徳や善根が仏の誓いを信じる人に与えられるのですから、しからしむと言うのです。一切のはからいがありませんから、自然と言うのです。誓願の真実の信心を得た人は、摂取して捨てずという御誓いにおさめ取られ護られているのですから、それは行人のはからいではありません。金剛のように堅い信心を得るのですから、心に保つのも自然です。信心が起こることも、釈迦という慈父、弥陀という慈母のはからいによるのです。これを自然の利益というのだとご理解になってください。


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