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かげのかたちにそえるがごとく [『唯信鈔文意』を読む(その36)]

(7)かげのかたちにそえるがごとく

 親鸞は本文3において「観音勢至自来迎(かんのんせいしじらいこう)」を「この不可思議光仏の御なを信受して憶念すれば、観音・勢至はかならずかげのかたちにそえるがごとくなり」と注釈していました。「南無」と求める人にはかならず観音・勢至が、つまりは阿弥陀仏が、「かげのかたちにそえるがごとく」に寄りそってくださると。
 そしてこの本文4に「みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず」とありますように、阿弥陀仏が「そひたまひてまもりたまふ」のは「みづから」であると言います。われらがそんなふうにお願いするから、それに応えて「そひたまひまもりたまふ」のではなく、弥陀自身が「みづから」そうしてくださる。
 もし、われらがお願いするから、それに応えて寄りそってくださるとしますと、逆にわれらがお願いしなければ、寄りそってくださらないということになります。つまりわれらのお願いが救いの条件となります、「南無」があるから「阿弥陀仏」があると。すぐ前のところ(5)で、「南無」のないところに「阿弥陀仏」はないと言いました。このふたつは同じ顔つきをしていますが、まったく違うことを言っています。
 「南無」があるから「阿弥陀仏」があるとしますと、ぼくらは一生懸命「南無」しなければなりません。こんな程度じゃ足りない、もっと「南無」しなきゃと、どんどんエスカレートしていきます。あるいは、あの人はこんなに「南無」しているのだから、自分も負けてはならぬと競争するようになっていきます。これが自力の信心、自力の念仏であることは明らかでしょう。
 しかし「南無」のないところに「阿弥陀仏」はないというのは、まったく違う別のことを言っています。


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