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慙愧すること [『唯信鈔文意』を読む(その44)]

(15)慙愧すること

 罪は罪として自覚し慙愧すれば罪でなくなるということばはこころに沁みますが、さてそれは先ほどの「行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず」ということとどう繋がるのか。罪を転ずるためには少なくとも慙愧することが必要だということにはならないでしょうか。何もしないのに「おのずから」悪が善に転ずるなどということがあるわけないではないか。
 前に(7)こう言いました、南無と阿弥陀仏は一体であり、南無のないところに阿弥陀仏はおわしませんと。しかし、とつけ加えました、それは、南無することが条件となって阿弥陀仏が寄りそってくださるということではないと。この微妙な関係を次のように言い換えることもできます、慙愧のないところに阿弥陀仏はおわしませんが、しかしそれは慙愧すれば阿弥陀仏が寄りそってくださるということではないと。
 慙愧がないところに阿弥陀仏はおわさないと聞きますと、ぼくらの頭は、そうか、では慙愧しなければならない、というように働きます。阿弥陀仏に救われるためには慙愧することが必要なのだと。あるいは慙愧することが条件となって、阿弥陀仏の救いが与えられると。
 これはもうぼくらの骨の髄まで沁みこんだ習性で、どんなことも「原因と結果の図式」で捉えようとするのです。慙愧することが原因となり、阿弥陀仏の救いが結果として生ずるのであり、したがって、阿弥陀仏の救いを得ようと思ったら、慙愧しなければならないというように。
 もし慙愧が、そうしようと思ってできることでしたら、この原因・結果の図式通りに進めればいいでしょうが、慙愧というもの、そんなふうにはなっていません。


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