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慙愧せしめられる [『唯信鈔文意』を読む(その45)]

(16)慙愧せしめられる

 阿闍世は、慙愧しなければならないと思って慙愧したのでしょうか。もうそうせざるを得なくて慙愧したのではないでしょうか。「ああ、とんでもないことをしてしまった」という思いは有無を言わせず胸の奥から込み上げてきたのです。『涅槃経』では、阿闍世の全身に「かさ」が吹き出て、それが彼を苦しめるのですが、これは慙愧というものは「おのづから」吹き出てくるものだということを象徴しています。
 慙愧は、「慙愧する」というかたちではなく、「慙愧せしめられる」というかたちしかありません。
 さてこのように慙愧と阿弥陀仏による救いは原因・結果の関係ではないとしますと、両者はどういう関係でしょう。慙愧のないところには阿弥陀仏はおわなさいということをどう理解すればいいのでしょう。南無と阿弥陀仏の関係と同じく、両者は「ひとつ」ということです。
 「慙愧せしめられる」ことと「阿弥陀仏に救われる」ことは「ひとつ」であるということ。つまり、慙愧せしめられたときには、もうすでに、阿弥陀仏に救われているということです。
 この不思議を善導は「機の深信」と「法の深信」の二種深信で説いてくれました、「機の深信」のあるところには、すでに「法の深信」があるのだと。「ああ、こんな自分は救われない」と悲しみの涙を流すときが、「そのままで救われている」と喜びの涙を流すときです。
 これが「行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切のつみを転ず」ということばの意味です。

              (第3回 完)

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