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『唯信鈔文意』を読む(その47) ブログトップ

来迎とは [『唯信鈔文意』を読む(その47)]

(2)来迎とは

 これから(本文5~本文7)親鸞は来迎についてのこれまでにない画期的な解釈をはっきり打ち出していきます。従来、来迎はとうぜん臨終のこととされてきましたが、親鸞はそれを信心をえたそのとき、「ときをへず日をへだてず」のこととするのです。いわゆる現生正定聚という思想です。今回はこの現生正定聚をじっくりと味わっていきたいと思います。
 この段ではまず「来」について、それは「浄土へきたらしむ」ことだと述べた上で、それはまた「かへる」ことだと言います。ここに親鸞らしい融通無碍なこころを見ることができます。来を「かへる」と読むのは親鸞ならではでしょう。
 来迎とは、普通は、如来がわれらのところに来てくれて浄土へ迎え入れてくれると理解するものです。『観無量寿経』には、われらのいのち終らんとするとき、阿弥陀如来が観音・勢至菩薩たちとともにわれらのもとに来てくださり、紫金の台(うてな)に乗せて浄土へ迎え入れてくださると書いてあります。
 念のために経文を引きますと「是故我今 来迎接汝(このゆえに、われいま、来りて汝を迎接す)」とあり、「来」の主体は如来であることは明らかです。ところが親鸞はまず「来」を「浄土へきたらしむ」ことであると解釈します。如来が浄土からわれらのもとに来てくださるのではなく、われらが浄土へ来られるようにはからってくださるのだと。
 こんなふうに、親鸞の手にかかりますと、如来が浄土から娑婆へ来ることから、われらが娑婆から浄土へ来ることへと転じてしまうのです。そしてさらに驚きますのは、来を「かへる」と読み替えるのです、「法性のみやこへかへる」と。「法性のみやこ」とは浄土のことですから、われらは本願に遇うことができたそのときに、浄土へ帰ることができるというのです。


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