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『唯信鈔文意』を読む(その53) ブログトップ

まつといふこころ [『唯信鈔文意』を読む(その53)]

(8)まつといふこころ
 
 ここは現生正定聚の思想がはっきり出てくるということで、古来、大事にされてきたところです。親鸞はまず、迎について「むかへたまふといふ。まつといふこころなり」と言います。「むかへたまふ」はそのままで問題ありませんが、それに続く「まつといふこころ」は、うっかりしますと、如来がわれらが帰るのを待っていてくださるというように受け止めてしまいかねません。
 しかし、もしそうでしたら、「まちたまふといふこころ」と尊敬語にしなければなりませんし、それより何より、その後に続くことばとつながりません。その後には「金剛の信心」について語られ、それは「信心やぶれずかたぶかずみだれぬ」ことだと述べられていますから、この「まつ」はわれらが本願を信じて浄土へ帰る日を待つということに違いありません。
 先ほど「来(かへる)」の主体は如来ではなくわれらであることを見たのですが、ここでも「迎(まつ)」の主体は如来ではなくわれらです。
 親鸞は、来迎とは如来がわれらを迎えに来てくださるのではなく、われらが浄土へ帰れる日を待つということだとその意味を換骨奪胎してしまうのです。これが親鸞流ですが、この換骨奪胎によって来迎は臨終のときから、本願に遇うことができたときに移動します。「南無阿弥陀仏」の声が聞こえたときが来迎のときです。
 「待つ」ということ、これも「帰る」ということに劣らず、しっかり思いを致さなければならないことばです。
 ぼくらはいつも何かを待っています。生きることは何かを待つことだと言ってもいいくらいです。しかし、この待つことほど難しいことはないとも言えます。何かを待つとき、それがどれほど確かだと思っても、一抹の不安が伴うからです。


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