So-net無料ブログ作成
検索選択
『唯信鈔文意』を読む(その60) ブログトップ

十方無量の諸仏 [『唯信鈔文意』を読む(その60)]

(15)十方無量の諸仏

 ここで改めて確認しておきたいと思いますが、南無阿弥陀仏とは「いのちの声」です。阿弥陀仏は「無量のいのち(アミターユス)」ですから、その阿弥陀仏の呼び声である南無阿弥陀仏は「いのちの声」と言えます。無量のいのちがあって、しかる後にその声があるのではありません。無量のいのちが南無阿弥陀仏の声です。
 阿弥陀仏は南無阿弥陀仏であるということ、南無阿弥陀仏以外に阿弥陀仏はいないということ、これを忘れないようにしたいと思います。その「いのちの声」が十方世界にあまねく広まるために、「十方無量の諸仏にわがなをほめられむとなえられむとちかひたまへる」のです。「いのちの声」は十方無量の諸仏によって世界の隅々までひろめられているということです。
 また因幡の源左に登場してもらいましょう。早朝、裏山に草刈に行き、その草束を牛の背に荷わせ、自分も1,2把担いで家に戻る途中、どうにも苦しくなって背中の草束を牛の背に預けたそのとき、「源左たすくる(源左よ、助けるぞ)」の声が聞こえたのでした。この「源左たすくる」の声こそ、源左にとっての南無阿弥陀仏です。源左のこころは喜びにあふれ、思わず「ようこそ、ようこそ」と口をついて出た。これが源左の念仏でしょう。
 さて、この声はいったいどこから聞こえたのか。それについては全く証言がありません。源左にとって、そんなことはどうでもいいことなのでしょう。とにかくどこかからそう聞こえたという事実こそが大事であって、それがどこから来たのか、どうしてそんな声が聞こえたのかなどはいらざる詮索です。
 それをあえて言おうとするなら十方無量の諸仏からということになります。


『唯信鈔文意』を読む(その60) ブログトップ