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往生の因 [『唯信鈔文意』を読む(その65)]

(4)往生の因

 往生の因は「ただ阿弥陀の三字の名号をとなえむ」ことであると言うとき、聖覚(そして法然)は、その因を定められたのは如来であるから、われらは「ただ阿弥陀の三字の名号をとなえむ」ことによって往生できると主張しています。
 しかし親鸞はもう一歩踏み込んで、その因を定められたのが如来であるだけではなく、因そのものが如来より来ると見るのです。〈われら〉が「ただ阿弥陀の三字の名号をとなえむ」ことにより往生するのではなく、〈如来〉が「ただ阿弥陀の三字の名号をとなえ」てくださることによって往生できるのだと。
 「えっ」と思われたかもしれません。名号を称えるのはわれらであって如来ではないだろう、如来が名号を称えるなんてどこに書いてあるのか、と。
 書いてあるのです。それが第十七願、諸仏称名の願です。前にもふれましたが、聖覚も第十七願に注目しました。法蔵は「ただ阿弥陀の三字の名号をとなえむを往生極楽の別因」としようと五劫ものあいだ思惟され、「まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられむといふ願をおこしたまへり」と言っているのです。
 称名を往生の因とするために、まずは諸仏に「名号をほめられむとちかひたまへるなり」と述べています。このように聖覚は法然もふれていない第十七願に眼をつけているのですが、ただそれは、諸仏が称名するのはわれら衆生の称名の手本となるようにといった意味合いにすぎず、「われらの因」により往生できるという根本は動きません。
 しかし親鸞が第十七願に眼をつけるのはまったく違う観点からで、称名という往生の因が如来からくるということを言おうとしているのです。

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