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諸仏の称名 [『唯信鈔文意』を読む(その66)]

(5)諸仏の称名

 諸仏の称名とは何かと言いますと、弥陀の本願をわれら衆生に届けるための手立てなのです。弥陀は一切衆生を漏れなく往生させたいという願いを立てたが、願いはただそれだけでは何の力にもなりません。田舎の親が離れて暮らす子どもに対して「お盆には家に帰っておいで」という願いをもっていても、そう思っているだけでは伝わらないかもしれませんから、その願いを手紙や電話で伝えなければなりません。弥陀の本願も「南無阿弥陀仏」という声でわれらに届けられてはじめて存在します。諸仏の称名にはそういう意味があると親鸞は見たわけです。
 本願は諸仏の称名というかたちでわれらに届けられ、それが因となってわれらは浄土へ往生できるということです。
 そんなふうに往生の因そのものが如来から与えられるとしますと、われらとしては何をするのかということになります。すべてお膳立てされているのですから、われらは何もすることがないように見えます。ここに岐路があります。何から何までみんな如来からなんてことはありえない。もしそうならすべての人がすでに救われているということになるが、ならば教も行も何も要らないことになるじゃないかと思いたくなります。
 これが聖覚をはじめとする親鸞以前の人たちでした。名号を称えるという因は如来が定められたにしても、それを実際に行うのはわれらに決まっているではないかと。
 しかし親鸞は違います。往生の因はすべて如来からくるから、われらは何もしなくていい、ただそれを受け止めればいいと言うのです。「南無阿弥陀仏」は向こうからやってくるから、それを受け取るだけでいい。ただし受け取らなかったら、「南無阿弥陀仏」は素通りしていき、折角の「南無阿弥陀仏」も空しいと言わなければなりません。その「ただ受け取る」ということが「聞名念我」だと親鸞は言います。


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