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本願をつねにおもひいづる [『唯信鈔文意』を読む(その67)]

(6)本願をつねにおもひいづる

 「聞名念我」の「聞名」は文字通り名号を聞くということです。名号とは本願に他なりませんから、それは弥陀の本願を聞くということです。「帰っておいで」の声を聞く。では「念我」とは何か。
 聖覚はそれを「称名念仏」だと理解しているに違いありません。聖覚がここで慈愍三蔵のこの文を引いているのは、第十八願の「乃至十念」のことを言おうとしてのことです。たったの十回でも「南無阿弥陀仏」と称えれば漏らさず浄土へ往生させようという本願の趣旨を明らかにしようとこの文を引用しているのですから、聖覚にとって「念我」が「称名念仏」であるのは言うまでもないでしょう。
 ところが、またしても親鸞は違うのです。「念我」とは「憶念」であり、それは「本願をつねにおもひいづるこころのたえぬ」ことだと言います。「聞名」は本願を聞くことであり、「念我」は本願をこころに抱きつづけることだと。あるときふと「帰っておいで」の声がして、そしてそれをずっとこころの中であたためつづけるということ。
 「聞名念我」とはただ名号を受け取ること、と言うとき、「そうか、名号をうまく受け取ることができる人とできない人に分かれるのだ」と考えてしまいますと、そこに「わが手柄」が出てしまいます。名号を受け取ることは名号に何かをつけ加えることではありません、あくまで往生の因は向こうからやってくるのです。
 ではどうして名号を受け取ることができる人とできない人がいるのか。この問いには残念ながら答えるすべがありません。どういうわけか、ある人は受け取れ、どういうわけか、ある人は受け取れない。だから受け取れた人は「あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」(『教行信証』序)と喜ぶのです。では受け取れない人は?きっと何とも思っていないでしょう。誰かから「ぼくは本願を受け取ったよ」と聞かされても、「何のこと?」と、どこ吹く風だろうと思います。


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