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『唯信鈔文意』を読む(その71) ブログトップ

選ぶということ(つづき) [『唯信鈔文意』を読む(その71)]

(10)選ぶということ(つづき)

 あることを「する」ということは、他の何かをしないということで、そこにすでに選択があります。そして選択したことを「する」に当たって、細々したことを次々に選んでいかなければなりません。それは車を運転することを考えればはっきりします。
 まずどこへ行くかを選ばなければなりません。それが決まって、ガレージから右折するか左折するかが決まります。さて左折するとして、次の交差点をどちらに行くかを選ばなければならず…、というように「する」ことは「選ぶ」ことでくまなく埋め尽くされています。
 このように見てきますと、「あれか、これか」を選ばないなどということはありえないと言えます。禁固刑で牢屋に閉じ込められたとしましても、寝返りを打つぐらいはできるでしょうし、頭の中でものを考えたり想像したりすることはできます。そしてそれはやはり「選ぶ」ことです。
 人を選ぶことについても、人を外見で判断してはいけないと言われますが、それは人を選んじゃいけないということではなく、その人の本質をよく見きわめて選びなさいということです。ぼくらは「この人を取り、あの人を捨てる」という取捨選択を日常的にしているのです。
 弥陀はしかし人を選ばないはずです。富貴の人を取り、貧窮の人を捨てるなどということはありません。高才の人を取り、下智の人を捨てるなどということもありません。さらに持戒の人を取り、破戒の人を捨てることもありません。ここまではいい。問題はこの次です。
 弥陀はどんな人も選ばない、「ただ」名号を称えさえすれば、と続けますと、やはり「この人を取り、あの人を捨てる」ことになってしまいます。「名号を称える人を取り、称えない人は捨てる」というように。これではぼくらと変わりません。選び方が違うだけで、人を選ぶことにおいては何も違わない。

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