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「する」ことと「いる」こと [『唯信鈔文意』を読む(その72)]

(11)「する」ことと「いる」こと

 弥陀が往生の因として称名を選んだということは、われらは行として称名を選ばなければならないということです。他の行ではなく称名という行を選ぶことで往生できる。実に分かりやすいですが、さてしかしそうしますと、称名を選ばないものは往生できないということになります。
 そりゃーそうだ、弥陀が折角選んでくださった称名を選ばないというのだから、往生できなくて当然だ、と言うでしょうか。しかし親鸞はそうは言いません、「総迎来はすべてみな浄土へむかへかへらしむといへるなり」と言うのです。弥陀は徹底して「えらばずきらはず」でなければなりません。そうでなければもう弥陀ではない。
 それをわれらの側から言いますと、行として何も選ばないということです。が、しかしこれが躓きの石となります。
 先ほど言いましたように、何も選ばないということが考えられないからです。何も選ばないということは何もしないということ、もう死んでしまったように思えるのです。生きることは「する」こと埋め尽くされ、「する」ことは「選ぶ」ことに他ならないとしますと、そうなります。
 でも生きることには「する」こととは位相の異なるもうひとつの側面があります、「いる」ことです。
 もうすでにここに生きて「いる」こと。これは「選ぶ」余地がありません、ただ受け入れるしかない。行として何も選ばないと言いましたのは、「いる」ことをそのまま受け入れるということです。「貧窮と富貴とをえらばず」、「下智と高才とをえらばず」、「多聞と浄戒をたもてるとをえらばず」、「破戒と罪根のふかきとをえらばず」、自分の「いる」ことをありのままに受け入れる。


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