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「いる」ことはそのまま受け入れられている [『唯信鈔文意』を読む(その74)]

(13)「いる」ことはそのまま受け入れられている

 「童謡はどんな受けとり方をされてもいいのだが、その歌がうけとってもらいたがっているようにうけとってほしい。たぶんこういう風にうけとってもらいたがってる、というのはあります。詩人の吉野弘さんの解釈が、それに一番近かった。吉野さんは、『お鼻が長いのね』を、悪口として言っているように解釈されています。
 私のはもっと積極的で、ゾウがそれを『わるくち』と受けとるのが当然、という考えです。もし世界にゾウがたったひとりでいて、お前は片輪だと言われたらしょげたでしょう。でも、一番好きなかあさんも長いのよと誇りを持って言えるのは、ゾウがゾウとして生かされていることがすばらしいと思ってるから」。
 ぞうさんがぞうさんとしてここに「いる」ことは、もはや「えらばずきらはず」、ただ受けいれるしかありません。そしてそれができるのも、ぞうさんがぞうさんとしてここに「いる」ことが「えらばれず、きらはれず」に、そのまま受け入れられているからに他なりません。
 弥陀は「えらばずきらはず」、「すべてみな浄土へむかへかへらしむ」と捉えるのが親鸞だと述べてきました。ですから「ただ名号を称える」ことも「浄土へむかへかへらしむ」ための条件ではありません。たとえ名号を称えなくても浄土へ迎えてもらえるのです。
 ところが親鸞は同時にこうも言います、「真実信心をうれば実報土にむまる」と。これはどういうことでしょう。弥陀は「ただ本願を信じる」ものだけを浄土へ迎えようということでしょうか。他は往生の条件とならないが、「ただ本願を信じる」ことだけは例外だと言っているのでしょうか。


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