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『唯信鈔文意』を読む(その75) ブログトップ

「往生の因は信心」とは [『唯信鈔文意』を読む(その75)]

(14)「往生の因は信心」とは

 「正信偈」にも「(往生の)正定の因はただ信心なり」とあります。聖覚(そして法然)は「ただ弥陀の名号を称える」ことで往生できるとしますが、親鸞はそれに替えて「ただ本願を信じる」ことで往生できるとしたのでしょうか。往生の因は念仏ではなく信心であると。
 だとしますと、またしても「えらばずきらはず」の看板に偽りありということになります。弥陀は往生の因として信心を選んでいるということですから。それをわれらの側から言いますと、往生するためには信心しなければならないということで、裏返せば、信心のないものは往生できないということになります。
 どんなことであれ往生に条件がつきますと、もう弥陀の本願ではなくなるのではないでしょうか。しかし、こんなふうに言いますと、信心がなければ往生できないのは当たり前じゃないかというお叱りが飛んできそうです。信心がなくても往生できるなんて聞いたことがないと。
 「法蔵菩薩の誓願は十劫の昔に成就したのだから、一切衆生の往生はもうすでに約束されている、だから念仏も信心も要らない、何をしようが、何をしまいが関係ない」とする考えを真宗では「法体(ほったい)づのり」とか「無帰命安心」とか「十劫安心」などと呼び、異安心(異端)として退けます。
 ことは微妙だと言わなければなりません。
 前半の「法蔵菩薩の誓願は十劫の昔に成就したのだから、一切衆生の往生はもうすでに約束されている」は間違っていないでしょう。一人の例外もなく、みんな浄土へ帰ることができるのです。ただの一人でも(ヒトラーでも、ポルポトでも!)帰れない人をつくれば、その時点で弥陀の本願は弥陀の本願でなくなります。
 しかし。


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