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『唯信鈔文意』を読む(その78) ブログトップ

本文10 [『唯信鈔文意』を読む(その78)]

(2)本文10

 「但使回心多念仏」といふは、但使回心は、ひとへに回心せしめよといふことばなり。回心といふは自力の心をひるがへしすつるをいふなり。実報土にむまるるひとは、かならず金剛の信心のおこるを、多念仏とまふすなり。多は大のこころなり。勝のこころなり。増上のこころなり。大はおほきなり。勝はすぐれたり。よろづの善にまされるとなり。増上はよろづのことにすぐれたるなり。これすなわち他力本願無上のゆへなり。自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小聖人善悪凡夫の、みづからがみをよしとおもふこころをすて、みをたのまずあしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚(ぐばくのぼんぐ)、屠沽の下類(とこのげるい)、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。具縛はよろづの煩悩にしばられたるわれらなり。煩はみをわづらはす、悩はこころをなやますといふ。屠(と)はよろづのいきたるものをころしほふるものなり。これはれうしといふものなり。沽(こ)はよろづのものをうりかうものなり。これはあき人なり。これらを下類といふなり。

 (現代語訳) 「但使回心多念仏」の「但使回心」とは、ひとえに回心せよということばです。「回心」とは、自力の心を翻し捨てることです。真実の浄土へ往生するする人は、必ず金剛のように堅い信心が起こりますから、「多念仏」と言うのです。「多」は、大ということです。また、勝ということです。また、増上ということです。大とは、おおきいということ。勝とは、すぐれているということ。すべての善にまさっているということです。増上とは、すべてのことにすぐれているということです。これは他力の本願がこの上ないからです。自力の心を捨てるというのは、大乗小乗の聖人も善悪の凡夫もすべて、自らの身をよしと思う心を捨てて、わが身を頼まず、また自分の悪い心に囚われないということです。具縛の凡愚(ぐばくのぼんぐ)や屠沽の下類(とこのげるい)も、ただ一筋に広大な智慧の名号を信楽すれば、煩悩を持ったまま無上の悟りに至ることができるのです。具縛と言いますのは、あらゆる煩悩に縛られたわれらのことです。煩悩の煩とは身をわずらわすことで、悩とは心をなやますことです。屠沽の屠とは、あらゆる生き物を殺し屠るものです。それは猟師というものです。屠沽の沽とは、あらゆるものを売り買いするものです。それは商人というものです。これらを下類というのです。


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