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『唯信鈔文意』を読む(その80) ブログトップ

「せしめられる」なんて… [『唯信鈔文意』を読む(その80)]

(4)「せしめられる」なんて…

 では「回心せしめられる」とはどういうことか。ふと気がついたら回心していたということ、こう言うしかありません。回心しなければならない、回心しよう、と思っている限り、どこまでも回心はありません。それどころか、ますます回心から遠ざかっていきます。ところが、あるとき、「あれ、もう回心しているじゃないか」と気づく。これが「回心せしめられる」ということです。
 回心には「これから」はなく「もうすでに」しかありません。こう言っても同じことです、「どうすれば回心できるか」には答えがないと。「これから」回心するのでしたら、さてどうすれば回心できるかと作戦を立てなければなりません。でも、「もうすでに」回心していることに気づくしかないのですから、どうすればもこうすればもありません。
 回心ということについては、ぼくらはまったくの無力であるということ、ここにまた躓きの石があります。
 先回(第5回)みましたように、法然の専修念仏は、決然と「えらぶ」ことがそのいのちです。「これを取り、あれを捨てる」で貫かれ、非常にアグレッシブです。それに対して親鸞の他力念仏は「せしめられる」ところにそのいのちがあり、したがって非常に受動的です。この点がぼくら現代人にとっての躓きの石となるようです。何ごとであれ、果敢にチャレンジすることがよしとされ、「せしめられる」などというのは人間として何とも面目のないことと受けとめられるのです。
 ここであらためて確認しておかなければならないのは、回心は「する」ことではないということです。


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