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他力は「いる」ことにかかわる [『唯信鈔文意』を読む(その81)]

(5)他力は「いる」ことにかかわる

 もし回心が「する」ことでしたら、「せしめられる」のを待つことなく、みずから打って出るべきでしょう。「せしめられる」しかないというのはいかにも面目のないことです。しかし回心は、どれほどそうしようと思っても「する」ことはかないません。そうしようと思えば思うほど回心から遠ざかるばかりです。自力で自力から抜け出ることはできないのです。
 ぼくらはどうしても自力と他力を同じ平面上においてしまいがちです。こちらに太平洋があり、あちらに大西洋があるように、こちらに自力があり、あちらに他力があると。
 太平洋と大西洋は同じ平面(球面)上にありますから、その気になればいくらでも移動できます。でも自力と他力はそうはいきません。自力ではダメだから他力でいこうとしても、そうは問屋が卸してくれません。自力と他力はそのありようがまったく違っているからです。しかしどのように?
 すでに述べましたように、「する」ことはすべて自力です。どんなに他人の力に頼ろうとも「する」のは自分です。「他力で何かをする」という言い回しに意味があるとしますと、それは自分ではなく他人が何かを「する」のであって、他人にとっての自力です。自分であれ他人であれ何かを「する」のは自力であるということ、これは動きません。
 では他力はどこにあるのでしょう。「する」ことに他力の入り込む余地がないとしますと、「いる」ことをおいてはありません。「いる」とは「存在する」ということです。ぼくは男としてであれ、日本人としてであれ、他の何としてであれ、ここに存在するということ、これが「いる」ことです。
 ぼくはぼくとしてもうここに「いる」。


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