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「いる」は現在完了形 [『唯信鈔文意』を読む(その83)]

(7)「いる」は現在完了形

 「する」が未来形なのに対して「いる」は現在完了形です。ここに「いる」のは「もうすでに」存在してしまっているということ(これは過去形ではありません、現在完了形です)。
 これにも反論があるでしょう、いまここに「いる」と言うように、昨日も「いた」と言うし、明日もまた「いるだろう」と言うじゃないかと。確かに「いる」も現在完了形だけでなく、過去形も未来形もあります。でもそれは、ぼくが「いる」という事態が、昨日も起こっていたし、明日も起こるであろうということです。
 「いる」は現在完了形だというのは、ぼくが「いる」という事態が起こるのが過去であろうと未来であろうと、「いる」こと自体はあくまで現在完了形だということです。ぼくが昨日「いた」ということは、そのとき「もうすでに」存在してしまっていたということであり(英文法では過去完了と言います)、ぼくが明日も「いるだろう」ということは、そのときに「もうすでに」存在してしまっているということです(未来完了です)。
 それが過去であれ未来であれ、ぼくがここに「いる」ということは「もうすでに」存在してしまっているということ。
 「する」ことは「これから」で、「いる」ことは「もうすでに」。
 ぼくらが何かを「する」とき、ここに「いる」ことが前提条件ですから、ぼくらが「これから」何かを「する」ためには、「もうすでに」ここに「いる」ことが必要だということです。こんな疑問が起こるかもしれません。なるほど、ここに「いる」ことは現在完了形かもしれないが、ここに「いる」ことになったのは、それまでにさまざまなことをしてきた結果であって、過去の「する」ことの帰結として、いまここに「いる」のではないか。とすると「いる」ことも結局は「する」ことに還元されるのではないか、と。


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