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いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら [『唯信鈔文意』を読む(その91)]

(15)いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら
 
 慈愍の文の最後の一句「能令瓦礫変成金(のうりょうがりゃくへんじょうこん)」に対する親鸞の註釈です。
 すぐ前の本文10の末尾に「屠(と)はよろづのいきたるものをころしほふるものなり。これはれうしといふものなり。沽(こ)はよろづのものをうりかうものなり。これはあき人なり。これらを下類といふなり」とありました。これは親鸞が「屠沽の下類」ということば(宋代の元照(がんじょう)が『阿弥陀経義疏』で使っていることばで、信巻にも引かれています)を持ち出し、その意味を教えてくれているのですが、「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」の代表として「れうし」と「あき人」を上げていることに、いろいろな思いが立ち上がってきます。
 まず親鸞が生きていた当時、下類と蔑まれていた人たちの中に「れうし・あき人」がいたということ。
 猟師は「よろづのいきたるものをころしほふるもの」として差別され、商人はものをつくることなく「よろづのものをうりかう」だけで暴利を貪るものとして卑しめられたに違いありません。網野善彦氏が教えてくれましたように、ぼくらは百姓ということばから農民を思い浮かべますが、農民とともにさまざまな生業の人たちがその中にいたということを忘れるわけにはいきません。田畑の仕事だけでなく、山の仕事、川の仕事、海の仕事など多彩な生業があり、その中で「いし・かわら・つぶてのごと」しと蔑まれていた人たちがいたのです。
 そして、そうした「いし・かわら・つぶてのごと」き下類が誰あろう「われら」であるということ。「われら」は農民ではなく、まして武士や貴族でもなく、みんなから蔑まれている「れうし・あき人」の類であるということです。


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