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もうすでに「こがね」 [『唯信鈔文意』を読む(その93)]

(17)もうすでに「こがね」  

 自分を上類(善人)と思っている人は、実は下類(悪人)であるにもかかわらず、それに気づいていないだけなのに対して、下類は自らを下類と気づいている。「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」の「われら」とは、「あなたがた」に対する「われら」ではなく、「みんな」ということです。
 さて、そんな「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」を、弥陀の本願は「よくこがねとなさしめむ」と言うのです。「いし・かわら・つぶて」を変えて「こがね」と成すというのですから、錬金術のように、ある時点を境に180度ひっくりかえるというイメージになります。
 それが信心をえたときだとしますと、ぼくらは今生において「いし・かわら・つぶて」から「こがね」になるわけですが、これはどうも具合が悪い。ということから来生に焦点が当たることになります。今生では「いし・かわら・つぶて」だが、来生には「こがね」となると。
 これは無難な解釈でしょうが、しかし親鸞的ではありません。「如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにおさめとられまいらせ」るとするのが親鸞流です。摂取のひかりのなかにおさめとられるということは、もうすでに「こがね」であるということです。
 でも「いし・かわら・つぶて」が突然「こがね」に変るのではありません、「いし・かわら・つぶて」でありながら、そのままでもう「こがね」であることに気づくということです。もうとっくに「こがね」であるのに、これまではちっとも気づかなかった。ところが摂取のひかりの中でそのことにはたと気づくのです。


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