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煩悩と菩提 [『唯信鈔文意』を読む(その98)]

(4)煩悩と菩提

 もうひとつ同じ趣旨の文を『往生要集』からあげますと、「諸仏は貪(とん)と瞋(しん)とに依りて、道場(悟りをひらく場)に処したまふ。塵労(じんろう、煩悩のこと)は諸仏の種なり」(法句経)。これらの経文は、煩悩の中にこそ仏の道があるということを述べています。ぼくらは煩悩に生きるのは仏の道にそむくことだと考えますが、煩悩に生きること以外に仏の道はないというのです。
 当然、こんな疑問が起こります、「問ふ。煩悩・菩提、もし一体ならば、ただまさに意(こころ)に任せて惑業(煩悩の行い)を起こすべきや」と。源信はこう答えます、「かくの如き解を生(な)す、これを名づけて悪取空(空に囚われる)の者となす。…煩悩と菩提とは、体はこれ一なりといへども、時・用(ゆう、働き)異なるが故に染・不染不同なり。水と氷との如く、また種と菓(このみ)との如し。その体はこれ一なれども、時に随ひて用は異なるなり」と。
 体と用。便利なことばとしてよく使われますが、さてしかしどういうことか。源信の上げている「水と氷」は分かりやすい例です。どちらもH2Oで同じですが、方や液体で方や固体、その現れ方はまったく違います。これを煩悩と菩提(涅槃)に当てはめますと、どちらもその本質(体)は同じだが、その現れ方、働き方(用)はまったく違うということです。
 金子大栄氏はある人から「禅宗では厳しい修行をするということですが、真宗では修行をしないのでしょうか」と問われ、「禅では人里はなれた道場で修行をしますが、真宗では人中の生活の場が道場です。日々の生活が修行です」と答えられました。勤め人は会社が修行の道場であり、家庭の主婦は台所や居間が修行の道場だというのです。
 生活の場とは、煩悩の修羅場です。欲を起こし、腹を立てる、これがわれらの生活です。よく貪欲は餓鬼への、瞋恚は地獄への道のりだと脅されますが、先の経典には「塵労は諸仏の種なり」とあります。塵労の中にしか仏になる道はないというのです。
 

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