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群生と如来はひとつ [『唯信鈔文意』を読む(その102)]

(8)群生と如来はひとつ

 ただ、娑婆世界に如来がみちみちたまうという言い方には独特の難しさがあります。この娑婆に如来がみちみちていると言われますと、ぼくらはキョロキョロあたりを見回して、一体どこに如来がおわすか探そうとしますが、見えるのは群生ばかり、どこにも如来はおわしまさない。
 親鸞は「この如来、微塵世界にみちみちたまへり」にすぐ続いて、「すなわち一切群生海の心なり」と言います。外をキョロキョロしても見つからないはずで、ぼくらのこころの中に如来はおわすということでしょうか。
 しかし「こころの中にいる」というのは便利な言い方である反面、「どこにもいない」と言っているに等しい。こころが勝手に創りだしているだけというようにも受け取れるのです。しかし親鸞が如来は「一切群生海の心なり」と言うのはそういうことではないでしょう。群生のこころの中に如来がおわすのではなく、群生のこころが如来そのものだということに違いありません。
 煩悩と菩提が実は一体であるように、群生と如来も体はひとつだということ。
 ことは実に微妙ですから、一歩間違えば大変な妄言になってしまいかねませんが、「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなわち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆへに、この信心すなわち仏性なり」という一節を読むたびに、もう群生も如来もない融通無碍の世界が広がってくる気がします。ただ、「煩悩と菩提の体はひとつ」まではいいとして、「群生と如来の体もひとつ」と言いますと、すかさず「待った」がかかるような気がします。それは浄土の教えではないと。

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