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『唯信鈔文意』を読む(その104) ブログトップ

本文13 [『唯信鈔文意』を読む(その104)]

(10)本文13

 この心に誓願を信楽するがゆへに、この信心すなわち仏性なり。仏性すなわち法性なり。法性すなわち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまふ御かたちおば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。この如来を報身とまふす。誓願の業因にむくひたまへるゆへに報身如来とまふすなり。報とまふすは、たねにむくひたるなり。この報身より応化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光をはなたしめたまふゆへに尽十方無碍光仏とまふすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず、無明のやみをはらひ悪業にさえられず、このゆへに無碍光とまふすなり。無碍はさわりなしとまふす。しかれば阿弥陀仏は光明なり。光明は智慧のかたちなりとしるべし。

 (現代語訳) この心に誓願を信じますから、信心はすなわち仏性です。仏性とはすなわち法性で、法性とはすなわち法身です。法身は色もありませんし、形もありません。ですから、心に思いうかべることもできず、ことばで言うこともできません。この一如から形をとって現れ、方便法身と呼ばれるお姿を示して、法蔵比丘と名のられ、思い及ぶこともできない大いなる誓願を立てられたそのお姿を世親菩薩は尽十方無碍光如来と名づけられました。この如来を報身と申します。誓願という業因が報われた姿なので報身の如来と言うのです。報と言いますのは、種に報いるということです。この報身からさらに応身、化身など無数の形を現して、あらゆる世界に無碍の智慧の光を放たれますので、尽十方無碍光仏とよばれ、形も色もなく、無明の闇を払い、どんな悪業にも邪魔されませんから、無碍光と言うのです。無碍とはさわりがないということです。ですから阿弥陀仏は光明です。光明とは智慧のことだとお心得ください。

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