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この一如よりかたちをあらわして [『唯信鈔文意』を読む(その105)]

(11)この一如よりかたちをあらわして

 如来と群生は本質的にひとつであることを改めて感じさせてくれるのが「この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまふ」という一節です。
 「一如」と言いますのは「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへた」ところのことです。そこから法蔵比丘が「かたちをあらわし」、「すがたをしめして」、誓願を起こしたもうたと言うのです。としますと、法蔵の誓願は「こころもおよばれず、ことばもたへた」ところからやってきたということになります。「かたちもましまさ」なかったものが、法蔵の誓願として「かたちをあらわし」たと。
 一如(タター)から来た(アーガタ)ということで如来(タターガタ)といいます。如来は一如から現われ、本願を成就したのです。一方、われら群生もまたこの一如からかたちをあらわし、煩悩を成就しているのではないでしょうか。一如から如来が現われ、また群生も現われた。一如から本願が現われ、また煩悩も現われた。だからこそ、如来と群生の体はひとつであり、本願(涅槃)と煩悩の体もひとつだと。
 さてしかし、一如から如来が現われたのはいいとして、一如から群生が現われたというのはどういうことかと不審に思われることでしょう。
 そこで突然ですが、われら群生の年齢というものをどう考えたらいいかを考えてみたいと思います。かなり前のことになりますが、同じ職場の年若い同僚と、ぼくが担任した卒業生が結婚することになり、その仲人を頼まれたことがあります。その結婚式の場で、仲人の挨拶としてはどんなものかと危ぶみながらも、新郎の年齢について「彼は28歳ですが、実は38億歳です」と紹介したことを思い出します。新郎をはじめ列席の皆さん、一瞬「えっ」という顔をしていました。

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