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いのちの海 [『唯信鈔文意』を読む(その107)]

(13)いのちの海

 遇ったことのない人にばったり遇って「あっ、この人だ」と思うのは、恋に落ちる(fall in love)ときの経験です。はじめて遇う人なのに「ああ、この人をずっと待っていたのだ」と思う。それを言い表すのに「前世の縁」というようなことばを使いますが、これは前世で一度遇っていたということでしょう。だからこそ、はじめて遇うのに「あっ、この人だ」と思うのです。
 法蔵に遇うのも同じです。まだ遇ったことのない法蔵にばったり遇って、「あっ、法蔵だ」と思うのは、実はもうすでに遇ったことがあるからです。どこで遇ったかと言いますと、「いのちの海」の中です。一如の海の中で一体だった。かくしてぼくのふるさとも法蔵のふるさとも同じ「いのちの海」であるということになります。
 そうしますと、法蔵の誓願もこの「いのちの海」から生まれてきたことになります。「みんなに安らかな生を与えたい」という願いは「いのちの海」の願いではないでしょうか。ぼくも「いのちの海」から生まれてきて、さまざまな願いを持っています。「大病をせずに穏やかな日々を送りたい」、「それほど長生きでなくていいが、もう少し生きたい」、「逝くときは安らかであってほしい」などなど。まったく自分のことしか考えていないじゃないかと、あわてて「妻も同じように幸せであってほしい」とつけ加え、さらには「世の人みな幸せに」などとおまけをつけるかもしれません。
 これがぼくの願いですが、法蔵の願いとは雲泥の差があります。ぼくの願いは「まずぼく自身の安らかな生を、しかるのちに世の人みなの幸せを」というもので、法蔵の願いは「みんなが安らかな生を得るまではわたしの安らかな生を望まない」ということですから、これはもう比べようもないと言わなければなりません。でも、しかし、but.どちらも「いのちの海」から生まれてきた。

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