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『唯信鈔文意』を読む(番外) ブログトップ

あけましておめでとうございます [『唯信鈔文意』を読む(番外)]

 元旦にあたり、親鸞と神祇不拝(天皇不礼につながります)について考えました。

 「かなしきかなや道俗の 良時吉日(りょうじきちにち)えらばしめ 天神地祇(てんじんちぎ)をあがめつつ 卜占祭祀(ぼくせんさいし)つとめとす」。

 これは親鸞最晩年の和讃ですが、吉凶を占ったり、天神地祇に祈願したりすることを親鸞はきっぱりと拒否しています。釈尊の弟子(愚禿釈親鸞)としては当然のこととも言えますが、まわりはどこもかしこも神仏習合の流れに巻き込まれている中で、親鸞は潔癖な姿勢を貫いたと言うべきです。
 蓮如は「弥陀をたのむ」と言います。とすると天神地祇をたのむのとどこが違うのかという疑問が生じます。蓮如は、弥陀をたのむことの中に天神地祇をたのむことが「こもっている」から、弥陀一仏をたのめば足りると答えます。親鸞も同じ答えでしょうか。違うと思います。
 親鸞にとって、弥陀の本願を信ずることと天神地祇をたのむことは対極にあります。弥陀の本願に遇えたからこそ、おそれることなく人生に対処することができ、「倚りかからず」(茨木のり子)に生きることができる、これが親鸞です。親鸞の思想を他力本願と非難する向きがありますが、天神地祇に倚りかかることこそあしき他力本願です。

 今年もよろしくお願い致します。             2016.1.1

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