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『唯信鈔文意』を読む(その109) ブログトップ

本文14 [『唯信鈔文意』を読む(その109)]

               第8回

(1)本文14

 専修(せんじゅ)と雑修(ざっしゅ)の区別に関連して、善導の『法事讃』の一節が引かれたのでした。

  極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんがい)
  随縁雑善恐難生(ずいえんぞうぜんくなんしょう)
  故使如来選要法(こしにょらいせんようぼう)
  教念弥陀専復専(きょうねんみだせんぶせん)

  極楽は無為涅槃の界なり。
  随縁の雑善(それぞれの縁に応じてなすさまざまな善)おそらくは生じがたし。
  ゆゑに如来、要法(往生のための肝要な方法)を選びて、
  教えて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり。

 親鸞はこの文章について味わい深い注釈を施しているのですが、それを3段に分け、先回はその第1段を読みました。今回はその第2段です。ちょっと長いですが、一気に読みましょう。

 「随縁雑善恐難生」といふは、随縁は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなわち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆへに実報土にはむまれずと、きらわるるゆへに、恐難生といへり。恐はおそるといふ、真の報土に雑善自力の善むまるといふことをおそるるなり。難生はむまれがたしとなり。「故使如来選要法」といふは、釈迦如来よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時悪世界悪衆生邪見無信のものにあたえたまへるなりとしるべしとなり。これを選といふ。ひろくえらぶといふなり。要はもはらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。法は名号なり。「教念弥陀専復専」といふは、教はおしふといふ、のりといふ。釈尊の教勅なり。念は心におもひさだめてともかくもはたらかぬこころなり。すなわち選択本願の名号を一向専修なれとおしえたまふ御ことなり。専復専といふは、はじめの専は一行を修すべしとなり。復はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また専といふは一心なれとなり。一行一心を、もはらなれとなり。専は一といふことばなり。もはらといふは、ふたごころなかれとなり。ともかくもうつるこころなきを専といふなり。この一行一心なるひとを摂取してすてたまはざれば阿弥陀となづけたてまつると、光明寺の和尚はのたまへり。この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ。超はこえてといふ。よろづの法にすぐれて、すみやかに生死海をこえて仏果にいたるがゆへに超とまふすなり。これすなわち大悲誓願力なるがゆへなり。この信心は摂取のゆへに金剛心となれり。


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