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いのちそのものの願い [『唯信鈔文意』を読む(その108)]

(14)いのちそのものの願い

 ぼくの願いのふるさとは「いのちの海」で、法蔵の願いのふるさとも「いのちの海」だとしますと、ぼくの願いと法蔵の願いも、その見かけは比べようもありませんが、体はひとつということになります。
 ぼくの願いがどんなに手前勝手なものかと感じるのは、法蔵の願いに気づくからです。もし法蔵の願いに気づかないままですと、ぼくの願いは人の願いとして真っ当なもので、そこに何の問題も感じません。「健やかで穏やかな日々を送りたい」と願うのは当たり前のことで、それをとがめだてする人はいないでしょう。
 でも、何かこころの深いところが痛むのは、法蔵の願いがあるからです。法蔵の願いは、それに気づかされた瞬間にぼくらに慙愧の念を抱かせます。「おまえは自分のことしか考えていないじゃないか、自分が健やかで穏やかな日々を送れれば他の人はどうでもいいのか」と。これが善導の「機の深信」です。
 「機の深信」とは「たすかりようもない自分」と痛感することです。これが法蔵の願いに遇うことですが、法蔵の願いは「みんなが安らかに生きられますように」ということですから、「機の深信」は同時に「こんな自分もたすかるのだ」という「法の深信」でもあるのです。「たすかりようもない自分」が、しかし「そのままでたすかる」という不思議。
 どうしてこんな矛盾したことが起こるのかといいますと、群生も如来もそのふるさとは同じ「いのちの海」だからと考えるしかありません。群生は「自分が安らかに生きたい」と願い、如来は「みんなが安らかに生きられますように」と願う。どちらの願いも同じ「いのちの海」の願いとして体はひとつなのです。

               (第7回 完)

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