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気がついたらすでに浄土に [『唯信鈔文意』を読む(その117)]

(9)気がついたらすでに浄土に

 目はふだん前を向いています。前を見て何かを予期し、何かをつかもうとしています。これが「たてさま」ですが、ふと目が横にそれることもあります。教室でポカンと窓の外を見ていたりしますと、先生から「よそ見していてはいけません」と叱られますが、これまでジッと前の黒板を見つめていたのに、どういうわけか、ふと目が横にそれることがあります。何かが向こうからやってきて、それにふと気づくときです。これが「よこさま」ということです。
 そして「よこさまに」とは「もうすでに」ということです。
 「たてさまに超える」ときは「これから超える」のですが、「よこさまに超える」とは「もうすでに超えている」のです。もうすでに超えてしまっていることにふいと気づくのです。「すみやかに生死海をこえて」とありますが、これはこれから生死海を超えるというのではなく、もうすでに生死海を超えていることに気づくと理解しなければなりません。
 この観点からもう一度「もはらといふは、ふたごころなかれとなり」に戻りますと、これは「ふたごころ」であってはいけませんというのではなく、気がついたときは、もうふたごころではなく一心になっているということです。それは「これすなわち大悲誓願力なるがゆへ」だからです。自分でそうしようというのではなく、大悲誓願力でそうなるのです。
 さてここまできまして、ある疑問が頭をもたげます。「もうすでに」浄土にいることにふいと気づかせてもらえるのが信心だとすると、そもそも説教とは何かと。
 「これから」浄土へ往くのでしたら、そのためにはどうしたらいいかを聞くのは大いに意味があります。念仏すればいいということは分かっていても、ときにはこころに迷いが生まれることもあります。あるいは懈怠のこころが生まれるかもしれません。そこでときどきお坊さんの説教を聞かせてもらい、こころ新たに念仏の道を歩ませてもらうのは意義深いことです。

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