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そもそも説教とは [『唯信鈔文意』を読む(その118)]

(10)そもそも説教とは

 説教をするお坊さんも、それを聴く門徒衆も、そのような思いであることは、その場からよく伝わってきます。ときにお坊さんの叱責の声が混ざります、「どうやら半分は寝ておられるが、そんなことでほんとうに大丈夫かね」と。「あなたがたは旅の宿にいるんですよ。前にいるお婆さんなんかは、もう宿の玄関口で下駄を履こうとしてござる(と笑いをとるのが実にうまい)。今度また六道に落ちてしまったら、行き先は地獄・餓鬼・畜生のいずれかに決まっておるよ」というように、「後生の一大事」を確認させようとされるのです。
 趣旨は一貫しています。鎌倉・室町の世からずっと全国津々浦々でこのような説教が繰り返されてきたのだろうなとしみじみ思います。
 しかし、もういちど言います。「これから」往生するのではなく「もうすでに」浄土にいることに気づかせてもらえるのが信心なら、説教すること、説教を聴くことにどんな意味があるのか。気づかせてもらった人は「もうすでに」浄土にいるのですから、改めて説教を聴く必要はないでしょう。
 まだ気づかせてもらっていない人はどうかと言いますと、その人には浄土なんてそもそも存在しませんから、お寺に足を運ぶことはありません。家が浄土真宗でしたら、法事のときにはお坊さんから浄土のお話を聞くこともあるでしょうが、それはまあやむを得ずやっているだけのこと、馬の耳に念仏です。
 いやはや大変なところに出てしまいました。説教とは何かという問いは、お寺は何のためにあるのか、お坊さんは何のためにいるのかという問いへと発展します。


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