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ひとへに親鸞一人がため [『唯信鈔文意』を読む(その124)]

(3)ひとへに親鸞一人がため

 しかし、ことばの上からしますと、「親鸞一人がため」と「一切衆生がため」は明らかに相容れません。本願が「親鸞一人がため」だとしますと、親鸞以外の衆生は本願から漏れてしまうと思います。でもそれは本願を「わがもの」としようとしているからです。親鸞が本願を「わがもの」としてひとり占めにするのでしたら、確かにそれ以外のものたちは本願から漏れてしまいます。
 しかし親鸞が本願を「わがもの」にするのではありません。本願が親鸞を「わがもの」にするのです。そして本願は親鸞だけを「わがもの」とするのではなく、それ以外の一切の衆生もまた「わがもの」とします。なぜなら本願とは「一切衆生を仏としたい」という願いですから。
 かくして「親鸞一人がため」と「一切衆生がため」とは矛盾しないだけではなく、実は同じことだということが分かります。本願が「親鸞一人がため」であるということは、本願と遇うことができた「一人ひとりがため」であるということに他なりません。
 「願作仏心はすなはち度衆生心なり」とはそのことです。
 願作仏心とは、自分が「仏になりたい」と願うことではなく、弥陀が自分に「仏になってくれよ」と願ってくれていることに気づくことでした。そして度衆生心も、自分がみんなに「仏になってくれよ」と願うことではなく、弥陀がみんなに「仏になってくれよ」と願ってくれていることに気づくことです。こうして「願作仏心はすなはち度衆生心なり」と言えるのです。
 因幡の源左に「源左たすくる」の声が届いたとき、それは同時に「一切衆生をたすくる」であったに違いありません。その喜びを親鸞はここで「うべきことをえてのちに、みにもこころにもよろこぶこころなり」と表現しています。この喜びをえることができさえすれば、もう他に何もいらないと言っているのです。

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