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信心すなわち仏性なり [『唯信鈔文意』を読む(その125)]

(4)信心すなわち仏性なり

 さて、真実の信心は願作仏心であり、それは度衆生心に他ならないと述べたあと、「この信心すなわち仏性なり。すなわち如来なり」と言います。この印象的なことばについて改めて思いを致したい。
 改めてと言いますのは、すでに(第7回)こう言われていたからです、「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなわち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆへに、この信心すなわち仏性なり」。
 また、このことばと同じ趣旨のものが『浄土和讃』の「諸経和讃」(浄土三部経以外の経典にもとづいて浄土を讃えるうた)の中にもあります。「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」。
 さてしかし信心が仏性であるとはどういうことか。信心が起こるのは仏性によると言われるのでしたら肚にストンと落ちます。しかし信心イコール仏性と言われますと「うっ」と詰まるのです。さらに「すなわち如来なり」ときますと戸惑いはさらに深まります。
 『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性(一切の衆生に悉く仏性あり)」は有名で、大乗仏教のエッセンスがつまっていることばとして大事にされてきました。これは普通、「極悪人も含めて、ありとあらゆる衆生に、もとから仏となる可能性が備わっている」というように理解され、有り難い教えと仰がれてきたのです。
 そういうところからしますと、本願を信じ、浄土を信じることができるのは、われらにもとから備わっている仏性のお蔭であると了解されます。信心は仏性に〈よる〉と。ところが親鸞は「信心は仏性〈である〉」と言うものですから、何か日本語として違和感を覚えるのです。

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