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信心すなわち如来なり [『唯信鈔文意』を読む(その126)]

(5)信心すなわち如来なり

 どうやら「一切衆生悉有仏性」をどう理解するかというところに問題を解く鍵が隠されているようです。繰り返しになりますが、われら衆生に悉く仏性が備わっていると理解するのが一般的です。この理解では、仏性があるからこそ仏を信じることができるのだとすんなり了解できるのです。
 ところが親鸞としては、われら衆生に仏性が備わっているなどとは到底言えません。われらは全身、煩悩まるけで、罪悪深重、仏性など縁のない衆生であるというのが親鸞の人間観ではないでしょうか。としますと、仏性は向こうから与えられるしかありません。それが信心です。
 われら衆生がみずからの力で仏を信じるのが信心ではありません。われら衆生に仏を信じる力など薬にしたくてもありません。仏を信じることができるのは、それに先立って仏に信じられているからであり、仏から信じるこころを与えられるからです。これが「信心すなわち仏性なり」の意味です。
 そして「この信心すなわち仏性なり」のあと「すなわち如来なり」と続くのも、上に述べたように考えることでようやく光がみえてきます。われらが自分の力で仏を信じるのではなく、仏を信じるこころそのものが仏性として与えられるのですから、それは如来に他ならないのです。
 まずもって如来がいて、その如来が仏性という属性を持っているのではありません、仏性というはたらきそのものが如来なのです。ここが微妙で、しかも肝心なところですので、少し立ち止まって考えてみましょう。体と用(ゆう)という仏教語を使いたいと思います。

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