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これにすぎてかたきことなし [『唯信鈔文意』を読む(その130)]

(9)これにすぎてかたきことなし
 
 さて親鸞は「信心すなわち仏性なり」につづいて、その信心は「かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなし」という経文を引きます。われらの力で信じるのではなく、如来が信心を与えてくれるというのですから、こんなにやさしいことはないと思われますのに、あにはからんや、「これにすぎてかたきことなし」と言うのです。これはどう理解すればいいのでしょう。
 それは「信じる」とはどういうことかというもっとも肝心なことに関わります。
 ぼくらにとって信じることは、あくまで「自分の決断で信じる」ことです。キリスト教で言われる「不合理なるがゆえにわれ信ず」(2世紀のキリスト教神学者・テルトゥリアヌスのことばとされます)などはその典型的な言い回しでしょう。普通には大工ヨセフの子であるイエスが救世主=キリストだなんて不合理でとても信じられるものではないが、それを自分が決断して信じるということです。
 「信じる」ということばには非常に強い響きがあります。
 「~であると私は信じます」と言うときは、多かれ少なかれ「千万人といえどもわれ行かん」という心境ではないでしょうか。「さまざまに検討を重ねた結果、どうやらそのようだと思われる。もちろんそうではない可能性はあるから不安は残るが、だからこそ最後は決断しかない。かくしてわたしはそれに賭ける」、これが何ごとかを信じるときの心の動きでしょう。
 信じることには人間としての最高の尊厳があります。だからこそ「思想・信条の自由」と「信教の自由」は憲法が保障するさまざまな自由の中でもその中核におかれます。この自由が認められず、特定の思想・信条や宗教が押し付けられる社会は暗黒です。

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