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「わたし」という牙城 [『唯信鈔文意』を読む(その131)]

(10)「わたし」という牙城

 「信じる自由」は人間が人間であるための最後の砦のようなものです。あるいは人間としての証明。
 自由ということばが出てきましたが、自由とは「自らに由る」ということで、「わたし」が自分で決めるということです。当然、その結果については「わたし」が責任を負うことになります。「信じる自由」も「わたし」が信じるのであって、その結果がどうであれ、それは「わたし」が全面的に引き受けるということです。これが「信じる」ことの一般的な受け止めです。
 ところが本願を信じるというのは、「わたし」が信じるのではなく、如来が信じさせてくださるのだと言われる。ここに躓きの石があります。
 これは、なんだか人間が人間であるための最後の砦を開け渡したようなものだと感じられるのです。だから到底受け入れられない。たとえそれによってどんな安心が得られるとしても、自分としてはそれを拒んで最後の砦を死守したいと思う。かくして「かたきがなかにかたし、これにすぎてかたきことなし」となります。
 どうやら問題の焦点は「わたし」にありそうです。「わたし」という牙城が「信心は仏性なり」の前に立ちはだかるのです。では「わたし」という牙城を捨てればいいじゃないかと言われるかもしれませんが、ことはそんなに単純ではありません。そもそも「わたし」は守るものであって、それを捨てることなどできることではありません。
 釈迦は「無我」と言います。これは文字通り「わたし」がないということですが、しかし釈迦は「わたし」を捨てなさいなどと無茶なことを言っているのではないでしょう。

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