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無知の知 [『唯信鈔文意』を読む(その134)]

(13)無知の知

 「煩悩まなこをさえてみることあたわず」とすれば、どうして「大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」と言えるのか。それは、こちらから見ようとしても見えないが、ふと向こうから照らされているのを感じるということでしょう。現に照らされているのを感じなければ、見えないとも言えないはずです。
 その方も「自分には他力の気づきはない」と言われますが、もしほんとうに何も気づかなかったら、「気づきがない」とも言えないのではないでしょうか。
 ソクラテスの「無知の知」が頭にうかびます。ソクラテスは、自分は「善く生きるとはどういうことか」について「知らない」と言います。しかしそこで反転して、こう言います、「しかし自分は知らないということは知っている」と。もしまったく知らないなら、知らないということも知らないはずだというのです。知らないのに知っていると思っているのがほんとうの無知だと。
 これはいまの場合も言えるのではないでしょうか。もしその方にまったく気づきがないのなら、気づきがないという自覚もないはずです。気づいていないのに気づいていると思っているのがほんとうに気づいていないのです。
 気づきがないという自覚があるということは、もうどこかで気づいているに違いありません。その方は親鸞に関する講座にわざわざ足を運んでくださっているのですが、もしその方にまったく気づきがないのでしたら、どうしてお金を払って親鸞の講座に出てこられるのか理解できません。そのお金でおいしいものを食べた方がよほどいいではありませんか。ですから、もう気づいているのです。でも気づいているという実感がありませんから、「ぼくには気づきがない」と言われる。

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