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自力の大菩提心 [『唯信鈔文意』を読む(その136)]

(15)自力の大菩提心

 さて、この段の最後に、少し気になる一節があります。「われらがちちはは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり」のあと、「おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏のよにいでたまひしみもとにして自力の大菩提心をおこしき」と続く部分です。
 この文の主語はわれら衆生と考えていいでしょう。「おこしき」とあり、「おこしたまひき」ではないからです。われらは前世において諸仏のもとで「自力の大菩提心」をおこしたというのです。そしてこう言います、「恒沙の善根を修せしによりていま願力にまうあふことをえたり」と。
 ある人は本願力に気づき、ある人は気づかないのはどうしてかという問いには答えがないと言ってきました。どういうわけかある人は気づいており、どういうわけかある人は気づいていないとしか言いようがないと。ところがここでひとつの答えが与えられるのです。前世において「自力の大菩提心」をおこした人は本願力に遇うことができるのだと。
 今生において本願力に遇うことができるかどうかは前世において決まっているということです。これはどうも親鸞らしくないなあと感じます。前世において「善根を修せしにより」本願に遇うことができるということは、裏返せば、前世に善根を修しなかった人は本願に遇うことができないということになりますが、これが親鸞でしょうか。
 そもそも親鸞は前世のことをあまり話題にすることがありません(宿業は親鸞にとって大事な概念ですが、これは個々人の前世とは微妙に異なります)。親鸞の真骨頂は、来世より今生に目を向けるところにあることはこれまで繰り返し述べてきました。来世に成仏することより、現生において正定聚であることに重きを置くのが親鸞です。それは前世についてもしかりで、前世がこうだから今生は云々、といった言い方はしないのではないでしょうか。


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