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『観経』と『大経』 [『唯信鈔文意』を読む(その141)]

(3)『観経』と『大経』

 もちろん親鸞としては『教行信証』において『観経』の三心と『大経』の三信との間の関係について詳しく論じているのですが、ここではそれがすっ飛ばされ結論だけがポンと示されるものですから、「えっ」と戸惑わせることになります。そこで僭越ながら、親鸞に代わり、『観経』の三心と『大経』の三信の関係について、必要な範囲でお話しておきたいと思います。
 まず『観経』と『大経』を親鸞がどう捉えていたかですが、善導や法然が『観経』を重視したのに対して、親鸞は『大経』に重きを置きます。『教行信証』「教巻」に「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」とある通りです。そして『観経』は方便の教えが説かれていると押さえるのです。
 真実の教えは『大経』、方便の教えは『観経』。
 『大経』のポイントは本願と名号です。これまた「教巻」に「如来の本願をとくを経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり」とある通りです。如来の本願が名号としてわれら一切衆生に与えられていると説くのが『大経』です。それに対して『観経』はと言いますと、一見したところ、定善(こころを統一して仏とその浄土をこころに思い浮かべる)と散善(それができない人は、さまざまな善を修める)を説くように見えます。定善と散善を修めることによって往生することができると。
 しかしそれはあくまで表面上のことで、実は如来回向の名号を説くところに『観経』の真意があると親鸞は捉えるのです。それはこの経の最後において、下品下生のものども、つまりは阿闍世のような五逆・十悪の極悪人(定善はもとより散善も修めることのできないもの)も阿弥陀仏の名号を称えることで往生できると説いているところに現われていると。つまり『観経』は如来回向の名号を説くための方便として定善・散善を説いているのだというのです。

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