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真か化か [『唯信鈔文意』を読む(その143)]

(5)真か化か

 これで親鸞が言っていることが一応明らかになったと思いますが、大事なのは「表に現れた意味(顕)」と「裏に隠れた意味(隠)」を区別し、それを方便と真実として理解する親鸞のものの見方です。これを単なる経文の解釈学に閉じ込めてしまうことなく、もっと広い場で活用できないでしょうか。
 ぼくらは真実の反対は虚偽だと考えます。あることが真でないとすれば偽であると。ところが親鸞は、あることが真ではないとしても、必ずしも偽であるとは言えないとして、「真と偽のあわい」とでもいうところを探ろうとするのです。
 真とも偽とも決着つかないという意味ではありません。そういうものは周りにごろごろしていますが、そうではなくて、一見偽に見えるが、その中に真が潜んでいるという微妙なものを捨てないで大事にしようというのです。
 専修と雑修に戻って考えてみましょう。法然は(そして聖覚も)専修(「ただ念仏」)か雑種(「念仏も」)かと問いを立てます。そして専修を取り雑修を捨てる。この「選択(せんじゃく)」に法然らしさがあると繰り返し述べてきました。これは専修が真ならば雑修は偽であるという立場で、実に明快です。すっきりして気持ちがいい。
 専修の側にいる人が雑修の人を見て、「お前さんは偽である」と切り捨てる。切り捨てられた側は、無条件降伏するか徹底抗戦するかのどちらかしかありません。これが「真か、さもなくば偽」の立場です。
 それに対して親鸞は、雑修は真とは言えないが、だからといって偽ではなく、そこに真への方便があると見るのです。これを親鸞は化(仮)と呼びます。「真と偽」に対して「真と化」。偽は捨てるしかありませんが、化は方便として大事にしなければなりません。

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