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「みなもてそらごと、たわごと」なれど [『唯信鈔文意』を読む(その145)]

(7)「みなもてそらごと、たわごと」なれど

 それにしても「真か偽か」ではなく、「どちらも化」とはどういうことでしょう。
 『歎異抄』の後序に、「聖人のおほせには、善悪のふたつ、総じてもて存知せざるなり。そのゆへは、如来の御こころによしとおぼしめすほどに、しりとをしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどに、しりとほしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもてそらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とあります。
 この善悪を真偽に置き換えれば「真偽のふたつ、総じてもて存知せざるなり」で、「ただ念仏のみぞ」真であるということです。念仏のみが真だということは、如来から賜るものだけが真であって、われらの下す判断などというものは「みなもてそらごと、たわごと」だということです。
 しかし「みなもてそらごと、たわごと」であるとしても、それを偽として捨てるわけにはいきません。ぼくらは信仰上のことも生活上のことも、「そらごと、たわごと」と思いながらも、みずから判断を下していかざるをえないのです。
 なぜ「そらごと、たわごと」と思いながら、日々もち上がってくる諸問題について判断を下していけるかと言いますと、本願と名号という「まこと」がすでに与えられているからです。そのことに気づいているからこそ、安心して「そらごと、たわごと」を言い合いながら、火宅無常の世界を生きていけるのではないでしょうか。

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