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『唯信鈔文意』を読む(その146) ブログトップ

本文18 [『唯信鈔文意』を読む(その146)]

(8)本文18

 「不得外現賢善精進之相(ふとくげげんけんぜんしょうじんしそう)」といふは、あらはにかしこきすがた、善人のかたちをあらわすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆへは、「内懐虚仮(ないえこけ)」なればなり。内はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆへに、虚なり仮なり。虚はむなしくして実ならぬなり。仮はかりにして真ならぬなり。このこころはかみにあらわせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつわらず、へつらわず、実報土のたねとなる信心なり。しかれば、われらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし。懈怠(けたい)のこころのみにして、うちはむなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなきみなりとしるべしとなり。「斟酌(しんしゃく)すべし」といふは、ことのありさまにしたがふて、はからふべしといふことばなり。

 (現代語訳) 「不得外現賢善精進之相(ほかに賢善精進の相を現ずることをえざれ)」と言いますのは、外に賢そうな姿や善人としての形をあらわすことのないようにということ、まじめに修行しているような姿を示すことのないようにということです。どうしてかと言いますと、「内懐虚仮(うちに虚仮を懐けばなり)」だからです。「内」とは「うち」ということ、心のうちに煩悩を抱いていますから、「虚」であり「仮」なのです。「虚」とは「むなしい」こと、「実ではない」ということです。「仮」は「かり」で、「真ではない」ことです。これらの文字の意味はすでに示した通りです。真の信心というものは真実の浄土(へ往生すること)の種となり実となるもので、偽りや諂いのない真実の報土の種となる信心です。しかし、われらは善人でも賢人でもありません。賢人と言いますのは、賢くよい人のことです。われらにはまじめに修行する心もありません。怠け心しかなく、内はむなしく、偽りや飾り、諂いの心ばかりで、まことの心などない身であると知らなければなりません。聖覚上人が「斟酌すべし」と言われていますのは、ことの真実のありさまをよく見て考えなければいけないということです。

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