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いつわり、かざり、へつらうこころのみ [『唯信鈔文意』を読む(その148)]

(10)いつわり、かざり、へつらうこころのみ

 冒頭に述べましたように、聖覚『唯信鈔』の感性と親鸞『唯信鈔文意』の感性との間には微妙ですが見過ごすことのできない違いがありますが、ここでその違いがきわだってきます。
 聖覚は至誠心について、まずその反対の虚仮の心を次のように述べます、「まことにふかく浄土をねがふこころなきを、人にあふてはふかくねがふよしをいひ、内心にはふかく今生の名利に著しながら、外相にはよをいとふよしをもてなし、ほかには善心あり、たうときよしをあらはして、うちには不善のこころもあり、放逸のこころもあるなり」と。その上で聖覚はこう言うのです、「これをひるがへして真実心をばこころえつべし」と。
 われらの内には虚仮の心が渦巻いているが、それを「ひるがへして」真実の心にならなければならない。実にまっとうな言い分です。
 ところが親鸞はこう言います、「うちはむなしく、いつわり、かざり、へつらうこころのみ、つねにして、まことなるこころなきみなりとしるべし」と。われらの内には虚仮の心しかなく、真実の心など薬にしたくてもないというのです。聖覚はわれらの内に虚仮の心があるのは確かだが、それを真実の心に「ひるがへす」ことができるとするのに対して、親鸞はわれらの内には虚仮の心しかなく、それを真実の心に「ひるがへす」ことなどできるわけがないと言います。
 いかがでしょう、聖覚の言うことが常識的で、親鸞の言い分は極端だと感じます。われらには悪い心もあるが、善い心だってあるはずだと思います。「いつわり、かざり、へつらうこころ」ももちろんあるが、ときには己に正直にふるまうことだってあるじゃないか。だから「いつわり、かざり、へつらうこころ」が出たら、それを「ひるがへして」自分に正直であるよう心がけるのは当然じゃないか、と。

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