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『唯信鈔文意』を読む(その149) ブログトップ

偽悪ではないか? [『唯信鈔文意』を読む(その149)]

(11)偽悪ではないか?

 親鸞のように虚仮の心ばかり強調するのは偽悪というものではないか、と言いたくならないでしょうか。
 常識の人・聖覚はこう言います、「みにとりてはばかるべく、はぢがましきことおも、人にあらはししらせて、かへりて放逸無慚(ほういつむざん)のとがをまねかんとす」と。恥ずかしいことと思い心の中に留めているものをわざと人前にさらけ出すのは、正直のように見えて、「どうせ悪人なんだから」という開き直りにつながりかねないということです。
 だから「みにとりてはばかるべく、はぢがましきこと」は密かに心の中で反省して、それを真実の心に「ひるがへす」ことこそ大事だと言うのでしょう。人のこころの機微に通じた諭しと言わなければなりません。では親鸞の言うのは極論で、ことの真相を歪めているのでしょうか。
 『観経』に至誠心が持ち出されてくるコンテキストを改めて確認しておきますと、「浄土をもとめ、穢土をいとひ、仏の願を信ずること、真実のこころにてあるべし」(聖覚)ということでした。聖覚としますと、これは当然のことで、自身としては「真実のこころにて」浄土を求め穢土を厭うていると思っているに違いありません。「まことにふかく浄土をねがふこころなきを、人にあふてはふかくねがふよしをいひ、内心にはふかく今生の名利に著しながら、外相にはよをいとふよしをもてな」すのは他人のことで、自分には関係のないことと思っているはずです。
 しかし親鸞という人は、「真実のこころにてあるべし」を当たり前のこととは思えないのです。「まことにふかく浄土をねがふこころなきを、人にあふてはふかくねがふよしをいひ、内心にはふかく今生の名利に著しながら、外相にはよをいとふよしをもてな」すことは他人事ではないのです。

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